赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

日記と自伝

自分が半生を生きた後に自らの人生を省みて記されるのが自伝である。

それならば、現在の自分の状況を、色眼鏡ないしは一切の脚色なしで描くとしたらどうなるであろう。

ゴッホが生涯、唯一の親友であった弟テオに宛てた手紙はその最たるものかもしれない。自分の今の境遇から、絵画のこと、社会問題、宗教問題に至るまで、自分の思うところを余すところなく手紙の中に記している。

小林秀雄も講演のなかで、ゴッホの手紙とルソーの懺悔録は、告白文学の最高傑作と評している。

自分の今の状況を克明に、リアルな筆致で記していく。後年になって自らの過去を回想して記すというのは、記憶も曖昧になりがちであり、どれだけ自分の記憶に忠実に描写しようと試みても、意図せずとも無意識の脚色の影響は免れえない。

そのように考えると、最も純粋に、自己の告白を行なっていこうとするならば、日記のような形式にならざるを得ない。純粋な自己を告白することは思ったよりも難しいことである。

ゴッホの手紙のように、極めて個人的な、身内に対して書くような言葉であれば、嘘偽りのない自身が表れているだろう。

しかし、他人の目線を考えて記される言葉、すなわち、書籍、ブログにおける言葉などはそうはいかない。他の目的ならともかくとして、自己を告白する言葉を綴ろうとするならば、少なからず他人を意識して書かれるこれらの表現形式では自己というものが無意識のうちに歪められてしまう。

それでは、ブログに記していけるのは、所詮空虚な言葉でしかありえないのか。

ブログを始めて間もない僕には、その真偽のほどはまだわからない。今後、ブログの中で、真なる自己を語っていくことができるのか、偽りの自己を語っていくことになるのか。

今後の展開は、まだわからない。ただ、ここで表明したいことは、僕の当面の目標は、過去を適度に振り返りつつ、絶えず現在の自分を振り返り、不断の努力を続けていける、そういう文章を紡ぎ続けることである。現在を鋭く分析することで、未来を予感させることは、現在の自分が将来の自分を形作ることに他ならない。何しろ、現在の僕は、読者というものを意識することのできる立場ではないのだ。ひたすらにエセーを書いていくだけだ。

ここは途中だ、人生という旅におけるあくまでも、通過地点である、そのような気概をいつまでも持ち続けることのできるような人生を歩みたい。

それが真に達成されたとき、文章を書くという作業は、自分の歴史を作っている地道な作業に他ならない。

自分の未来がどうなるかはわからない。しかし、今それを意識した瞬間から未来は変わりうるのだ。

人は何故行動するのか。それは、その行動が自分にとって善だからである。ソクラテスの言である。

ソクラテスの言葉を借りるまでもなく、自らの行動は自分にとって、善悪の判断のもとに為されていく。

僕はこのブログを、自身の歴史を形作っていく、確かな足跡として書き記していきたい。

正しい仕方で自己を反省し、そして未来を予感させる、そういうブログでありたいのだ。