赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

暑くて走りにくいにもかかわらず、最近自身のランニング熱が日増しに高まって来ているのを感じる。

走らないと体がムズムズするような心地になる。一日に一回は走りたい。休みの日は時間があるので、LSDを行う。

きたるべき、マラソンシーズンに備えて、夏のうちに体重を絞り、走れるカラダづくりを徹底的に行いたい。

どうしたら

自分が本当にやりたいことがあるのならば、やらねば仕方ない。自分が今の仕事であったり、所属している周囲の環境にも影響を受けることは間違いないが、リスクを考えたうえで、それを納得できるのならば、幸せなことである。

過去に述べたこともあるが、できるだけ人生における決断ということを要しないに越したことはない。自然な流れで、必然として、進むべき方向に進むという決断が好ましい。この場合の決断は、周囲の人間からみると、大きな決断をしたようには見えないことが多いだろう。

しかしながら、現実にはこのような決断ができない場合もある。過去に小さな選択の誤りを繰り返した結果、現在の決断が迫られている場合である。すでに行き詰まっているのでれば、どちらの選択肢も素直に選びづらくなってしまう。

僕は恥ずかしながら、このような経験がたくさんある。常に直感に従って、選択が行えるのならば苦労しないが、どうしても、外的な環境、例えば、家族をはじめとした周囲の人間の助言や忠告などに耳を貸して道を修正してしまうきらいがある。しかし、その歪みは徐々に大きくなっていく。気づいたら、自分の直感とはかけ離れた道を歩んでいる可能性がある。

ところで、直感に従うといっても、自分という人間が一体なんなのかがわからなくて、直感を信じるといっても、果たしてそれが、信用に足るものなのかという問いが生まれる。実際、本当になりたい職業に就いている人間などごく限られた割合でしか存在しないかもしれないからである(わからないが)。肝要なのは、仕事に就いた時点でその仕事が自分の適正に合っているのかどうなのかと下手に考えるよりも、しばらく働いてみることだろう。仕事を自分に合わせるのではなく、自分が仕事に合ってくる可能性はままあるからである。人間は何が転機となって、どう考え方が変わるかなんてわからない。ある日突然、コペルニクス的転回が起こることは何ら不思議なことではないからである。

しかし、無理は禁物かもしれない。しばらく働いて、やっぱり自分には合わない、大きなストレスを感じるようでは、適正が合わないのかもしれない。過去にも同じような選択をして現在の鬱屈とした自分があるのならば、現在の状況には無理があるということである。

そのような場合は、どこかで軌道修正しなければならないのは確かである。もう無理!と思ったらすっぱり方向転換するのも手かもしれない。今後もだましだまし生きていったところで、依然として心にわだかまりや決断に対する後悔があるようでは、よい方向に進んでいるとは言い難いからである。人生は有限である(おそらく)。有限であると考えるのならば、なるべくしなくてもよい回り道をすることなく、自分の性分に合った生き方をしていきたいものである。

顔つき

あらゆる職業で、役者でも、芸術家でも、作家でも、料理人でも本当に成功した人間というのは、大抵顔つきがよい。

顔つきがよいから成功するのか、成功するから顔つきがよいのか。おそらくどちらも正しいだろう。どちらの要素も相乗効果的に作用して、人間を形作っているのだ。

自分の天命を知り、やるべきことがわかっている人は顔つきが、目つきが違う。遠く彼方に存在する理想を見る眼をもっている。

そのような人間は強い。

人は外見で判断できないとよく言われるが、半分あっているが、半分間違っている。

僕は人に会ったときにまず顔つきで判断する。

顔つきというものは意外と多くの情報を与えてくれる。これまでの人生模様が刻まれていることも多い。

僕は人を見るとき、僕の直感を信じている。

贅沢

贅沢をするとはどういうことか。最もわかりやすいのは、金銭面での贅沢である。いい店に外食に行った、高級な服を購入した、出費がかさむ旅行に行ったなど、贅沢を感じやすい瞬間は、身の丈を超えて、必要以上にお金をかけて満足を得たときである。

僕にとっての贅沢はそれとは異なるかもしれない。

奮発して、時間があるときに、今日では古典と称される、偉大な作家達の作品を自分の心の赴くままに読むことは僕にとって最高の贅沢と言える。自分の部屋にいながらにして、書物の世界に引き込まれると、知らず知らずに僕は世界に飛び出している。いや、世界になっている。

また、贅沢というと、僕は、ブランド品などには興味がもてない。高品質なものは好むことはあるけれども。僕にとっての贅沢とは、知的好奇心をそそられるものに出会うことである。

 

 

電子機器

仕事の都合上、パソコンを使用しなくてはならないことが多いし、それ以外でも、スマホを眺める機会がたくさんあることが原因なのか、眼精疲労からくる頭痛がひどい。もう少し、セーブしなければいけない。

目を酷使することといえば、読書がある。だが、読書量は昔から変わらず多いので、眼精疲労疲労の原因は、電子機器の画面を長時間眺めることに起因していることは疑いようがないことだ。現代の日本社会で暮らしていくには、パソコンやスマホは必須ツールといってよいだろう。これらなくして、社会生活を営もうとするのならば、相当な困難を強いられるだろうことは容易に想像がつく。もはや後戻りはできない。これら電子機器による弱視は、以前より危惧されてきていることであるが、今後より一層、便利な生活を享受するために、これらの機械が我々の生活に深く関わってくるようであれば、数十年後など、長期的に目にどのような影響が及ぶのだろうか想像しただけで、恐ろしくなってくる。

このことも、便利を享受すれば、それだけ身体機能は低下してくるというあたりまえな原則に基づいていると考えられる。自然を志向するという考え方がさまざまな分野で出てきているが、社会は止まることはない。不可逆的に進行していくのみである。もはや、生き物としての人類の終末も近いのかもわからない。だから、どうしろというわけでもない。現代が特に新しいわけではない。所詮、生きて死ぬというあたりまえをわれわれは繰り返しているに過ぎないのだから。