赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

酒について

僕は、酒がめっぽう好きなタチで、日本酒、焼酎、ウイスキー、ブランデー、なんでもござれといった感じで、日々の晩酌も欠かすことがほとんどないといってよい。

一番愛飲しているのは日本酒だろう。冷蔵庫には、要冷蔵の無濾過生原酒系の日本酒を常に1、2本キープしてあるし、常温で保管しているものには燗にして飲めるような熟成感のある黄色みがかった日本酒がある。焼酎、ウイスキーなどの蒸留酒も常時数本はラインナップされている。

飲んだ日本酒の銘柄は実に多岐に渡る。日本全国津々浦々の酒を飲んでみたいという欲求が僕を突き動かし、各地に足を運んだ際には、きまってその土地の日本酒を買って帰る。全国的に有名な銘柄を一通り飲んだ後は、あまり全国に流通することのない地方の小さな蔵の酒が飲みたくなる。認知度が低い蔵であるからといって、味もイマイチだなんてことは決して言えない。隠れた銘酒に出会ったときの感動というのは、筆舌に尽くしがたいものがある。

自分の好みの味というのは、その時々で多少の変化はするものかもしれないが、基本的にそれは、日々の食事やお酒を嗜む中でアップデートされていくものではないかと思っている。舌が肥えていくというのはありきたりな表現ではあるが、実際、様々な酒を経験していくことで、舌は違いを理解するようになり、個々のお酒の個性というものが実に繊細に感じられるようになる。

先程、有名銘柄は一通り飲んだと書いたが、だからと言って、そんな簡単にそのお酒を理解できたことにはならない。酒米精米歩合、造りの違いで、同じ蔵のお酒でも全然違った顔を見せてくる。また、酒造年度の違いで、同じスペックのお酒でも異なる味わいとなるのである。お酒は生きているというのは、よく言われる言葉であるが、真実であろう。

一般的な酒飲みというのはどういうものなのか、僕はよく知らないが、僕は専ら家で独酌を好む。

お酒といえば、居酒屋で飲むイメージが強いが、僕は断然家で飲むのが好きである。理由は様々あるが、僕は酒自体が大好きということに起因するのだろう。居酒屋で飲む酒というのは、基本的に目的ではなく、手段になっているところに嫌悪を感じる。酔ってウサを晴らすための酒、ばか騒ぎだったりくだらないコミュニケーションに利用される酒、僕はこのような飲み方は酒というものに対して失礼だと思う。

酒は、本来飲むほどに自分を感じるものである。酔っていく自分を見つめる理性、そこに自身の精神をみるのである。酔うほどに精神は冴え渡っていくのである。こんなすばらしい飲み物があるというのに、くだらない会話やグチを言うためにこれを利用するなんて、背筋が寒くなる思いがする。

さらに、居酒屋は、基本的にお酒の値段がべらぼうに高い。正規の値段を考えると、一合にも満たない量で何故この値段と驚きを隠せない。質的にもどうかなというシロモノも随分出回っているのにも関わらず、これが日本酒か、飲みやすいな、という客の反応を見ているのもなんだか残念である。居酒屋というのはそういうものである。嫌なら利用しなければよい。だから、僕は、居酒屋は自ら積極的に行くことはほとんどない。

僕は、酒を飲むのは、自己と向き合う神聖な儀式だと思っている。今宵も僕はスピリッツ(精神)の旅に出る。