赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

どうしたら

自分が本当にやりたいことがあるのならば、やらねば仕方ない。自分が今の仕事であったり、所属している周囲の環境にも影響を受けることは間違いないが、リスクを考えたうえで、それを納得できるのならば、幸せなことである。

過去に述べたこともあるが、できるだけ人生における決断ということを要しないに越したことはない。自然な流れで、必然として、進むべき方向に進むという決断が好ましい。この場合の決断は、周囲の人間からみると、大きな決断をしたようには見えないことが多いだろう。

しかしながら、現実にはこのような決断ができない場合もある。過去に小さな選択の誤りを繰り返した結果、現在の決断が迫られている場合である。すでに行き詰まっているのでれば、どちらの選択肢も素直に選びづらくなってしまう。

僕は恥ずかしながら、このような経験がたくさんある。常に直感に従って、選択が行えるのならば苦労しないが、どうしても、外的な環境、例えば、家族をはじめとした周囲の人間の助言や忠告などに耳を貸して道を修正してしまうきらいがある。しかし、その歪みは徐々に大きくなっていく。気づいたら、自分の直感とはかけ離れた道を歩んでいる可能性がある。

ところで、直感に従うといっても、自分という人間が一体なんなのかがわからなくて、直感を信じるといっても、果たしてそれが、信用に足るものなのかという問いが生まれる。実際、本当になりたい職業に就いている人間などごく限られた割合でしか存在しないかもしれないからである(わからないが)。肝要なのは、仕事に就いた時点でその仕事が自分の適正に合っているのかどうなのかと下手に考えるよりも、しばらく働いてみることだろう。仕事を自分に合わせるのではなく、自分が仕事に合ってくる可能性はままあるからである。人間は何が転機となって、どう考え方が変わるかなんてわからない。ある日突然、コペルニクス的転回が起こることは何ら不思議なことではないからである。

しかし、無理は禁物かもしれない。しばらく働いて、やっぱり自分には合わない、大きなストレスを感じるようでは、適正が合わないのかもしれない。過去にも同じような選択をして現在の鬱屈とした自分があるのならば、現在の状況には無理があるということである。

そのような場合は、どこかで軌道修正しなければならないのは確かである。もう無理!と思ったらすっぱり方向転換するのも手かもしれない。今後もだましだまし生きていったところで、依然として心にわだかまりや決断に対する後悔があるようでは、よい方向に進んでいるとは言い難いからである。人生は有限である(おそらく)。有限であると考えるのならば、なるべくしなくてもよい回り道をすることなく、自分の性分に合った生き方をしていきたいものである。