赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

懐かしい歌

懐かしい歌を久しぶりに聴いてみた。

ティービーワンダーのPart-Time Loverだ。

大学一年生で一人暮らしをしていたアパートでよく聴いていた曲である。

新生活が始まったときは、多くの人々の例に漏れず、いろいろな期待や不安が入り混じった落ち着かない日々を過ごしていた。

そのような中で、好きな音楽を聞くことは、非常に心安らぐ時間になった。僕にとって、スティービーワンダーの才能溢れる歌唱を耳に入れることは、ある種の安全基地(secure base)に身を置いているような安心した気持ちにさせてくれたように思う。

久しぶりに曲を聴くと、瞬時にその曲をよく聴いていたときの記憶が蘇る。これは、Part-Time Loverに限ったことではなく、これまでの人生で熱中していた曲には、大抵、僕の思い出がそばに流れている。

曲は、あくまでも同じ曲であり、年月を経ても変化していることはない。それなのに、聴くごとに、様々な心境が自分の脳裏をよぎるのはなぜだろうか。あるときは、過去の思い出が蘇り、またあるときは、これまでに感じたことのない違った感情が呼び起こされるのだ。

それはおそらく、僕が絶えず変化しているからであろう。僕が日々、成長して、大小様々な変化を繰り返して、曲というある種の情報に対峙したときに、違った屈折率を伴うことになるのであろう。

これは、おそるべき当たり前なことである。

しかし、当たり前なことほど気づきにくいという逆説がそこにはある。古典と呼ばれる書物に接するときも同じ仕方で説明がつく。なぜ、人々は古典を飽くことなく、何遍も読むのであろうか。

なるほど、古典と呼ばれる作品は難しい。一度読んだだけでは、そのすべてを理解するのはおよそ無理だといってもよい。ただ、何遍も読む理由はそれだけではないはずだ。古典は読むたびに、鏡のように自己を照らし、読んだときの自分にあわせて、様々な気づきを与えてくれる。読む者の知識に、感情に、年齢に応じて、いわばどんな人にでも応えてくれるような大きな深みがそこには存在するのだ。読書百編という言葉はこのような古典の性質に由来するのではないかと僕は考えている。お気に入りの本を何遍も読むというのも、つまるところ、自分を再発見するためではないだろうか。

今夜も僕は、Part-Time Loverを聴いている。

辛いときに励みになるのは、なんといっても、過去の辛いときを味わった自分の存在である。これ以上、頼りになる存在はおそらくないのではないかと思っている。

さて、深く自分というものに沈潜して、眠りの世界に旅に出よう。