赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

禍福は糾える縄の如し

人生の幸福というものは、一体どこに存在するのであろうか。

何をもって幸福とみなすのか。欲しい車が、家が、手に入ったとき?それとも大金持ちになったとき?

自分の好きな人と結婚できたとき?

幸せの対象が外的なものに依存している場合、絶えず相対的に幸不幸の判断がなされてしまう。

幸せとは、充溢したある種の状態であるとするならば、幸せを求める気持ちがあるということ自体、そも、幸せになり得るのかという問題が出てくる。

感覚的に言えば、幸せとは、欲して手に入るものではなく、ふとそこにあるのが気づかれるものである。そういう存在であるはずだ。

人生の幸不幸に関する諺に、「禍福は糾える縄の如し」というのがある。幸せと不幸は、より合わされた縄の目のように、交互に訪れるものだという意味である。

ふとした瞬間に幸せだなと気づく、逆に、突然自分は不幸であると認識する。言われてみれば、人生うまくできている気もする。幸せばかりの人生なんて滅多にないだろう。幸せだと感じるその状態が続いてあたりまえになると、それが幸せだと感じにくくなる。そして、ふとした瞬間に不幸を自覚する。

逆もまた然り。

幸せになりたいと欲する人が世の中には溢れている。しかし、幸せを欲するほど、幸せから遠のいていくというのは、人生における大きな逆説である。

 

 

 

睡眠不足

最近睡眠不足である。

睡眠が不足しているということは、その分起きて何か活動をしているということである。

ところで、基本的に人間は自分にとって「よい」と思われることしかできない。悪事を働こうとする人間にとっても、その行動がその人間にとって「よい」と思われるから、そう行動しているのである。

それならば、睡眠が不足してもよいと判断する行動もまた、自分にとって「よい」と考えられるからそうしているはずである。

ただ、その行動が適切なものであったかということは、別に判断されなければいけない。あたりまえなことであるが、「よい」と思って行動したことが本当に「よかった」ものであるかどうかはわからないからである。もし、そうでなければ、後悔などするはずがないからである。

睡眠不足というのは僕にとって、一つの生命の危機と言ってよい。それにもかかわらず、活動していた事柄というのは果たして、その価値があるのだろうか。起きているからには、意味のある時間を送っていたいと考えるのは、まあ、あくまでも僕の意識の言い分に過ぎないが。

どちらも捨てがたいということが人生にはどうしてもある。止むに止まれず、起きていてしまったということがどうしてもあるものだ。

その分、不足した睡眠時間のツケがきて、起きている時間に苦痛を伴う。

うーむ、難しい問題である。

こんなことを考えている暇があったら、早く寝るに限るかもしれない。

 

精神の健康

一日いろいろなことに奔走してクタクタになった体に、お酒というものはまさに五臓六腑に染みわたる思いがする。

緊張する時間が長いほど、弛緩する時間もまた必要である。いわゆる振り子の法則のようなものである。

お酒やタバコというものは、とかく健康を害するものとして、敬遠されがちなものであるが、そこで言われる健康というのは、あくまでも肉体的なものである。多くの場合、健康の精神面は加味されていないと言わざるを得ない。

タバコもお酒も、精神を落ち着かせる作用があるのは議論の余地がない。阪神淡路大震災の際にも、気持ちを落ち着かせるためにタバコを吸っている人たちがいたという逸話を内田樹が著書の中で述べていた。

そのような逸話を聞くにつけ、お酒やタバコは深く人類に愛されてきたものであるのだと納得する(僕はタバコを吸わないが)。

1日の終わりに一杯やる、おいしいお酒を飲んで、ストレスを上手に発散できるのならば、これほどおいしいクスリはないのではないか。今の世の中、精神の健康にもっと重きをおいてもよいと思う。

かく言う僕は今宵もお酒を飲み、精神のロケットを世界へ向けて発射している。

あたりまえ

あたりまえに生きている毎日。いつものように起きて、朝日を浴びながら、通勤する。クタクタになりながら、お月さまに挨拶をしながら家路を急ぐ。

あたりまえな、ごくごくあたりまえな日常の風景である。

ところであたりまえとは何か。日頃の習慣か、自分の日がな抱いている考えか、とにかく当然のことと思われるような事柄であろう。

しかし、あたりまえの有するこの性質により、あたりまえとはいかに稀有な、驚くべきものであるかを人は忘れてしまいがちである。

日々に感謝する、まわりの人に感謝するということ、様々なあたりまえなことに対して、まさにありがたいことだと思うようにしたい。

 

 

ベアフットランニング

僕は過去に膝を痛めたことがあり、それ以降、運動とどう向き合おうかと悩んだ時期があったが、ランニングの世界でベアフット系ランニングというものの存在を知り、それを実践していくことで、膝の痛みを克服することができた。

ベアフットとはハダシのことである。ベアフット系ランニングとはとは、ワラーチや裸足系のシューズを履いて行うランニングである。

ハダシ感覚でランニングを行うことのメリットは、とにかく怪我をしにくい走りを身につけることができるということに尽きるであろう。

下手な走りをしていると、すぐに足裏や膝にその結果が表れる。足に悪い走りや非効率的な走りをしているときに、足裏のマメや、膝の痛みという形で、僕にシグナルを出してくれるのだ。一般的なシューズを履いてランニングを行った場合にも、そのような症状は出てくるだろうが、それに比べて段違いに早く体のサインが出てくるのだ。

技術の進歩で、年々よい製品が登場するが、肝心の人間はというと、便利を享受するおかげで、かえって、能力の低下を招いていると言えるだろう。

これは、何もランニングに限ったことではない。同じような例で頭に浮かぶのは、古く遡るが、言葉を発明したことによる功罪である。ソクラテスが、言葉の発明による弊害を説いていたのを思い出すが、これはまさしく現代にも通じることである。

できるだけモノに頼らず、自分自身を変えていくことで、走りを変えていく。現代社会であるにもかかわらず、いや、現代社会であるからこそ、と言ったほうがいいかもしれないが、ベアフット系ランニングが流行ってきていることに代表されるように、人間本来の可能性を引き出す方向へ価値がシフトしつつあることはおもしろいことである。

広い意味で、科学技術の発展およびそれによる便利さと、人間が生きることの根本の対立を見ているようで甚だ興味深いものがある。

 

 

夏の匂い

最近、随分日が長くなってきたし、暑くなってきた。

日が沈む頃に、家の近所を歩いていると、ふと、夏の匂いを感じた。

夏の匂いというのは、なんといったらよいか、僕の幼い頃に嗅いだことのある、ある種の自然にはえている草花か、あるいは土などから発せられる匂いであるかもしれないと僕は推察する。

と、言ってみたものの、実際はもしかすると、夏の匂いというのは比喩的な表現かもしれない。夏の温度や湿度、音、周囲のモノなどから、僕が受け取る感覚の総体として、夏の匂いという雰囲気を感じ取っていると言っていいのかもしれない。

今年も夏はやってくる。その到来を予感させる匂いから、リアルな質感を伴った幼き日の思い出が蘇ってきた。