赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

決断

久しぶりの更新となる。これから、また継続してブログに文字を綴っていこうと思う。

 

人生における決断は誰しもあるのだろうか。

このときの選択が人生の分かれ道になった、このときの後悔をずっと後まで引きずっている、このときの決意がなければ今の自分はない、など、さまざまな人生論の類のものが世に溢れている。

人生の真相はいかがであろうか。

ぼくは、そのときの決断はそのときの自分がよいと思って、為したものであるわけだから、間違いはないと思う。しかし、いきなり清水の舞台から飛び降りるような奇想天外なことをやるということは、もしその決断がそれまでのその人の人生や生き方に全くそぐわない、無理をしたものであるのならば、なるべく避けるべきではないかと思う。

決断に苦慮するということは、どちらの道を選択するとしても、あまりよくないことが待っているということだ。積極的に選択しづらい選択肢のうちから選択を行わなくてはならないということは、すでによからぬ方向へ舵が進んでしまっていたということを示している。

できれば、大きな決断(無理をしている選択)をせずに、自然な流れで人生を歩んでいきたいものである。直感に従って、やりたいことをやり、やりたくないことはやらないという選択をすることが、大きな決断を要さず、無理のない流れで人生を歩むことができる。内田樹も著書の「そのうちなんとかなるだろう」で書いている。

しかし、実人生で問題なのは、自分が今どちらに向かって歩みを進めているのかが明確にわからないことである。誤った方向に進んでいるだろうと直感的にわかるのであれば、おそらく足早に違う方向に歩を進めるだろうが、自分の直感がどのくらいの精度を持っており、どこで勝負に出るかということは、それが自分にとってどうであったかなんて実際的に後ろを振り返るような仕方でないと不明確であるからだ。だからこそ、人々は自分の人生に不安を抱き、これまでの人生を振り返り、様々なことを考えるのである。

選択が正しかったか間違っていたかなんていう議論は、その道筋を辿ってきた現在の自分がそれを考える限り、決して答えは出ないはずである。

その限りで、直感に従って選択するのも、何かしらの考えに従って選択するのも、結局同じことかもしれないのである。

これまで歩んできたすべての軌跡が、今の自分を形作っているのであると考えると、すべてが自然の流れで、必然的に物事が起こっているような気もしてくる。そう考えると、少しは心も穏やかになる。