赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

暑さ

今年の夏も暑い。エアコンがないところで過ごす場合は、気をつけていないと、熱中症になるのも無理はないかもしれない。無理は禁物である。この暑さは、もはや人間による地球温暖化の影響というよりも、地球の歴史的にそのような周期に入っているということが原因であるような気がしてくる。どうしようもないことはある。ジタバタせずに自然に身を任せるしか方法はない。

運動をしている時以外は、できるだけ汗をかきたくない。汗をかきたくないならば、エアコンのよく効いた部屋に一日中引きこもっているより他に方法はない。しかし、実際にはそんな訳にはいかないし、第一こんな天気のよい日に外に出ないのは、精神・身体の健康上、悪いことは容易に想像がつく。

梅雨明けが発表された途端に、町中でセミの大合唱が始まった。天気のことは、生き物に聞くのが一番理に適っているようだ。

夏、ランニング

習慣的にランニングを行なっているが、梅雨も明けていよいよもって、走るのが億劫になってくる。

不快指数は梅雨以上だ。体中から汗が噴き出す。照りつける太陽は容赦ない。

日中走るのはまさしく自殺行為であるので、暑さに慣れてくるまでは、朝夕の比較的涼しい時間帯に走るようにしたい。

ラソンは冬の季語であるだけあって、真逆の季節である夏は確かにマラソンには不向きである。暑いせいで、汗をたくさんかくからといって、痩せやすいということはないし、熱中症の危険性も高くなる。涼しいときと比べて、圧倒的にバテやすい。

そのようなことを考えると、夏にランニングをするということは非効率的なことに思われそうであるが、やはり体力向上にはいいのかもしれない。暑熱馴化は、とにかく熱中症予防になるし、バテにくい体を作る第一歩となる。冬の来たるべきマラソンシーズンに向けての体力作りに夏は大切な準備期間であると言える。

そのように考えることで少しは走る動機付けができそうだ。

梅雨

今年の梅雨は、あまり雨が降らなかった。今年に限らず、近年、いわゆる梅雨とイメージされるようなシトシトと降る長雨はあまり見られないような気がする。広島の豪雨災害などに代表されるように、猛烈な雨が短期間に降るというパターンが多い。梅雨の雨は、生命にとっては本来的には恵みの雨となる。雨は、自然現象であり、それを忌み嫌うのは人間くらいであろう。生命に必須の水を供給する雨は、ほとんどの生き物にとっては、恩恵足り得るはずである。

僕は、雨の日が嫌いでない。晴れの日に見られる気持ちのいい青空を眺めることも大好きであるが、一日中降り続く雨音を聴きながら、家でゆっくりと過ごすのも気分がいいと感じるタチである。街のがやがやとした人間の雰囲気があまり好きではないので、雨の日のしっとりとした雰囲気は、心地よくさえ感じられるのだ。大多数の人間にとって、雨は生活の妨げになるため、そんな日には、街には人間のがやがやに代わって、雨の音や土の匂いなど自然が優勢となり、街に自然の潤いを与えてくれる。

しかし、昨今のゲリラ豪雨は、そんなことも言ってられない。自然が脅威となり、人間や動物に襲いかかってくる。そのような雨は、考えただけでも恐ろしい。

考えてみれば、梅雨に限らず、一年を通じて、気候は狂ってきているのかもしれない。夏なのに涼しい。冬なのに暖かい。異常気象といわれ、数十年に一度の◯◯と報道されるそのような気象は、もはや異常(非日常)ではなく、正常(日常)といってもよいくらい頻発している。四季がなくなってきているのだろうか。詳しいことはわからないが、あれっと思うような気候は今後、ますます増えてきて、いつしかあたりまえの風景になるのかもしれない。

キャンパス

先週、久々に西条にあるキャンパスを訪れた。このキャンパスで学んだのは、大学1年生の教養課程の1年間のみだったので、随分懐かしく感じた。期待と不安が入り混じった不思議な感覚を抱きながら、母と2人で借りたばかりのアパートから、入学式に向かったことは今でも忘れない。故郷から遠く離れた大学に進学することになった僕。当然ながら知り合いも何もいない。

大学受験に合格した喜びは、第一志望ではなかったことから格別に大きいということはなかった。むしろ、悔恨の情をいくばくか残したまま、大学進学を決意することにしたために、不本意な気持ちは、合格直後から進学を決意するとき、そしてその後にわたって心のどこかにたしかに存在していた。それでも、やっと受験勉強から解放されるという、その当時の究極な解放感を味わったことで、運命に従うことにした。

その時の感覚、質感とでもいうべきものが、ぎゅっと凝縮されたように、この土地には残っている。キャンパス内や、学生のアパートがたくさん立ち並ぶキャンパス周辺を思い思いに散策した。おとなりのお寺、馴染みのスーパーマーケット、大学への通学路。すべてが懐かしく思われた。おそらく今後、再び訪れることがあっても、同様の感覚を抱くに違いないであろう。その土地を踏んだときには、知らず知らず僕は昔の自分に還っていた。

変わったのは、僕が年をとったこと、僕の友人はもう誰一人としてここにはいないことだ。懐かしい風景は、昔のままだ。風景はそのまま同じで、そこで暮らす人間が、今も昔も変わらぬ大学生という種類の人間の中身が変わっているだけである。

こうして、月日が経つにつれて、感慨深いと思われる場所が増えていくのだろうか。刻一刻と、確実に歳をとっていくが、歳をとることで得られる心境というものに僕は興味が尽きない。

文字の結晶

過去の自分がどう思っていたかそのとき、そのときの心情を詳細に思い返すことは難しいことが多い。過去の時点での微妙な心情を現在に再現するには、多大な労力を要するし、正確に再現することは実際、大変難しいといってよい。

それならば、昔の自分を現在に蘇らすにはどうしたらよいのか。僕は、日々の自分の記録を克明に文字に託するのが最も確実ではないかと思う。

僕は、作家や思想家、芸術家たちの日記などの告白を読むのが好きである。「ゴッホの手紙」や、ルソーの「懺悔録」は比類のない告白文学と評されるが、それは、読む者の心の中に深く染み入り、鮮やかに蘇るからである。

僕は、毎日日記を書いているし、定期的にブログに文字を綴っている。日々刻まれた言葉は、やがて結晶となる。それは、決して外から眺めるだけのものではない。深く、その言葉に接し、想像力を働かせると、その言葉は深く自らの人生と呼応するかのように納得されるのだ。結晶が自分の血肉になるのが実感されるのだ。

決断

久しぶりの更新となる。これから、また継続してブログに文字を綴っていこうと思う。

 

人生における決断は誰しもあるのだろうか。

このときの選択が人生の分かれ道になった、このときの後悔をずっと後まで引きずっている、このときの決意がなければ今の自分はない、など、さまざまな人生論の類のものが世に溢れている。

人生の真相はいかがであろうか。

ぼくは、そのときの決断はそのときの自分がよいと思って、為したものであるわけだから、間違いはないと思う。しかし、いきなり清水の舞台から飛び降りるような奇想天外なことをやるということは、もしその決断がそれまでのその人の人生や生き方に全くそぐわない、無理をしたものであるのならば、なるべく避けるべきではないかと思う。

決断に苦慮するということは、どちらの道を選択するとしても、あまりよくないことが待っているということだ。積極的に選択しづらい選択肢のうちから選択を行わなくてはならないということは、すでによからぬ方向へ舵が進んでしまっていたということを示している。

できれば、大きな決断(無理をしている選択)をせずに、自然な流れで人生を歩んでいきたいものである。直感に従って、やりたいことをやり、やりたくないことはやらないという選択をすることが、大きな決断を要さず、無理のない流れで人生を歩むことができる。内田樹も著書の「そのうちなんとかなるだろう」で書いている。

しかし、実人生で問題なのは、自分が今どちらに向かって歩みを進めているのかが明確にわからないことである。誤った方向に進んでいるだろうと直感的にわかるのであれば、おそらく足早に違う方向に歩を進めるだろうが、自分の直感がどのくらいの精度を持っており、どこで勝負に出るかということは、それが自分にとってどうであったかなんて実際的に後ろを振り返るような仕方でないと不明確であるからだ。だからこそ、人々は自分の人生に不安を抱き、これまでの人生を振り返り、様々なことを考えるのである。

選択が正しかったか間違っていたかなんていう議論は、その道筋を辿ってきた現在の自分がそれを考える限り、決して答えは出ないはずである。

その限りで、直感に従って選択するのも、何かしらの考えに従って選択するのも、結局同じことかもしれないのである。

これまで歩んできたすべての軌跡が、今の自分を形作っているのであると考えると、すべてが自然の流れで、必然的に物事が起こっているような気もしてくる。そう考えると、少しは心も穏やかになる。

 

変化

ほんのふとしたきっかけで人間は、まったく変わってしまう。昨日までとはものを見る目がまったく変わってしまうことは人間誰もが経験することではないか。

おそらく、人生における転機が訪れるとしたら、まさにこの経験は避けられないだろう。

 

人間、すなわち、自然は常に変化するものである。名前という一つの呼称により自分は自分であると思い込みがちであるが、同じ自分など存在しないのである。

自分とは何かというのは哲学の大きな問題の一つであるが、実際、普段何気なく使っている自分という言葉はいかに不確かなものか、いいかげんに使われているかということに驚いてしまう。。