赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

小説

小説とは、様々な形式があって、一概には言えないが、作り話である。作り話であるために、現実の世界にしか興味がないといって、小説や文学作品全般を敬遠する人々がいる。その一方で、数百年前から現代に至るまで、多くの古典作品が残されてきており、根強い小説好きというものが存在している。多くの人々は大なり小なり、生きているうちに、小説という文学形式に親しんできているのではないだろうか。

小説を読み、その世界に没入して、主人公が生きるその世界を追体験することで何が得られるのか。

一つには、経験である。一人の人間が生を受け、死に至るまでに経験できることはどうしても限られてくる。小説のなかには主人公あるいはその他の登場人物の凝縮された経験や一生が詰まっている。多種多様な人物の生き方や考え方に触れることができるのである。

そして、そこから他人の心を理解しようとする心が育まれていく。教養とは他人の心を理解することである、といったのは誰の言葉であったか。

 

読む者自らの現実をも豊かにしてくれるものが小説であるはずだ。そうではないと、これほどまでに小説が魅力的であることはないはずだ。

 

事実は小説より奇なりという諺があるが、事実(現実)と小説(非現実)というものはある意味で非常に曖昧なものであり、僕にはしばしば何が現実であるかわからなくなることがある。認識の問題にもなってくるが、世の中で現実、現実と使われている現実は大概曖昧模糊である。現実と非現実というものは、思ったよりも僕らの日常の中に深く根ざしているといってよい。

そう考えると、リアリストがどこまで徹底できているのかということも疑問に思ってしまう。