赤い丘

日々の雑記。歯科医師。文学。哲学。酒。

酒の存在、そして好き嫌い

酒のおいしさを知るにつれて、食卓に酒がない状況が考えられないようになった。酒がない食事はどこか味気なく感じる。飲むことで得られる自らの理性が研ぎ澄まされていくさまを経験することもできないし、食事にリズムがなくなってしまうのがなんとも寂しい。

酒を中心に献立を考えるようになり、このお酒に合うつまみは何だろうと模索するようになってから、随分と食べ物の好き嫌いが少なくなったような気がする。酒が食の中心となり、そこから様々な食べ物につながっているようなイメージである。例えるならば、自転車のハブとスポークのような関係かもしれない。酒は料理間コミュニケーションの一大ツールと言っても過言ではないかもしれない。

幹となる中心が存在することで、料理と料理の間を取りなし、咀嚼運動のリズムに同調するように、食事全体に一定のリズムが生まれてくる。酒を基調とした食事というのは、本来的に実に優雅なものだ。

それにしても、好き嫌いが減ってくるというのは、どういうことなのだろうか。酒を飲むようになってから、酒に合うアテを探すうちに、食わず嫌いだった食べ物のおいしさに気づくことができるのかもしれない。しかし、それだけではない気がする。

舌に存在する、おいしさを感じる感覚受容器である味蕾は、年をとるほど減少していく。食べ物を咀嚼するのを手助けする役割も有する唾液の分泌量もまた、年をとるにつれて減少すると言われている。

果たして、味を感じにくくなる、すなわち、味覚が鈍くなることで、人々は好き嫌いが減ってくるのであろうか。

たしかに、好き嫌いが少なくなる、すなわち、えり好みが少なくなることは、味覚が鈍感になり、おいしさもまずさも感じにくくなっていることが原因している可能性は大いにある。

しかし、味覚が急激に鈍くなる年寄りになってから、好き嫌いがなくなったという話はあまり聞いたことがない。

実際、経験的なものだが、大体20代のうちに好き嫌いははっきりしてくるのではなかろうか。思想と同じで20代に核となるものができて、それを徐々に徐々に深化させていくというイメージを僕はもっている。

だとすると、何故好き嫌いは減ってくるのか。僕は、味蕾の数の減少に勝るだけの、その人が有してきた経験と知恵が影響しているからではないかと考える。

養老孟司は、著書で戦争中にイモばかり食べていたからイモが嫌いになったと述べていた。矢口高雄は、少年時代に、赤ん坊であった妹が畳の上に漏らした便を、何も知らないおばあちゃんが味噌と勘違いしてペロッと舐めてしまい、思わず吐いてしまった光景を見て、それ以後味噌が食べられなくなったという。

人間だけでなく、うちのペットのインコだって、小さい頃にフルーツや野菜を食べさせなかったお陰で、大きくなってそれらを与えてみても、ちっとも食べてくれない。

幼少期の生活環境や心理的な要因などにもその人の好き嫌いというものは大きく影響を受ける。

こういうことを言うと身も蓋もないが、実際好みなんてものは、人間は常に変化し続けていることからも、あてにならないものである。今日まで大好きだったものが、何かの影響で明日には全く受け付けないものになっている可能性だってある。

酒のアテを考えても、ナマコの卵巣だとか、酒盗だとか珍味と言われるものはたくさんあるが、どうしてこんなものを好んで食べたがるのだろうと疑問に思う料理はたくさんある。でも、いやいやながら口に運ぶと、意外といける、ということもあるのだ(ちなみに僕は例に挙げたナマコの卵巣も酒盗も大嫌いである)。

様々な影響を受けて味覚、そして好き嫌いは鍛えられていくようである。したがって、好き嫌いは基本的に若年のうちに形成されていくが、様々な経験などから大きく変化する可能性もままあるということか。

全くもってとりとめのない話になってしまった。